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トップ > 犬 強迫神経症 > 犬 強迫神経症 - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年12月4日 6時)

第214夜 「学会報告:“慢性”(=“動物性”)という語の使用」

 どこかの幼稚園。
 あと数分で、この幼稚園の体育館で開かれている、なにかの学会で報告をしなければならない。なのに、髪の毛にはぐしゃぐしゃに寝癖がついている。
「整髪剤ってない?」
 やはり発表を控えている友人Uにたずねる。
「粉チーズならあるよ」
 仕方がないので、KRAFTの粉チーズを頭にふりかけて髪型をセットする。
 意外なほどにうまくいく。
「壇上のトマトジュースの空き缶のなかには録音マイクが仕掛けてあるから飲んじゃダメだ」
 友人Uの忠告。
 そうだ。いままでここで講演を行ってきた歴代の人々、……フルトヴェングラーから、塩谷さん、樫村さんまでの音声データが、すべてあのトマトジュースの空き缶のなかにある録音装置に保存されているのだ。
 そこに自分の声も録音されることになるとは畏れおおいことだ。

 念のために原稿の最終チェック。
 間違った文章を書き込むと、その文章が消えるほぼ日手帳に、論文の要旨を書く。
「“慢性”(=“動物性”)ということばは、リビドーに翻弄される中学生の悲惨さを意識的に考えないようにしなくては、とても日常語としては使えない。」
 書いた文章は、句読点を打った瞬間にみるみる薄くなって、消える。

作者:warabannshi

更新日:2008年12月1日 8時21分

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◆環境思想・教育研究会 第11回例会

■ 第11回例会 [2008.11.29]

日時: 2008年11月29日 (土曜日) 14:00~18:00 (予定)

場所: 東京農工大学農学部 第1講義棟2階1-24講義室
(会場がいつもと異なりますのでご留意ください)。
 住所 〒183-8509 東京都府中市幸町3-5-8
 アクセス http://www.tuat.ac.jp/access/tra1.html
 校内地図 http://www.tuat.ac.jp/access/tra4.html

内容: [講演]
 「環境倫理と社会科学」 加藤 尚武氏 (鳥取環境大学名誉学長、京都大学名誉教授)

 終了後懇親会

お子様をお連れの方や具合の悪い方のための休養室「ケア・ルーム」も用意しておりますので、お気軽にご利用ください (第1講義棟2階1-18講義室)。
また、本例会は参加費は無料です。会員でない方も、ぜひお気軽にご参加ください。お待ちしております。

環境思想・教育研究会事務局

作者:warabannshi

更新日:2008年11月29日 0時0分

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農工大自主ゼミ 『市民の反抗 他五編』「市民の反抗」まとめ 2008/6/12発表

市民の反抗―他五篇 (岩波文庫)
H.D.ソロー / 1997 / 岩波書店
ISBN : 4003230736



 アメリカの良心。攻撃的な啖呵を切ることで、有名。
「原理原則に基づく行動、つまり正義の認識の実践とが、ものごとの諸関係を一変させるのである。したがって、その行動は本質的な意味で革命的であり、過去のいかなるものとも全面的には一致しない。それは諸国家や諸教会を分裂させるばかりではく、家族をも分裂させる。さらには個人を分裂させ、彼の内なる悪魔的なものを、神的なものから切り離すことになるのである。」(p.25)
 マタイの福音書10章34節~39を彷彿とさせる。 
▼“Civil Disobedience”原文(音声付き)




●概観
 「市民の反抗(Civil Disobedience)」は1849年に発表された。この執筆には奴隷制度と、アメリカ・メキシコ戦争(1846-1848)への嫌気があったと考えられている。
 ソローの主張は、[A]政府が個人の良心による原理原則principle――より高い道徳的法則をくつがえしたり、萎縮させることを許可してはならないこと。[B]いちじるしく不正と見なしうる政府に対して市民は納税拒否のような手段に訴えて反抗する権利と義務を有すること、という二点にまとめられる。(岩波文庫版P.367も参照)


●影響
◆マハトマ・ガンジー(1869-1948)
「ソローは大作家、哲学者、詩人であり、その上とても実際的な男性でした。つまり、彼は彼自身が準備して実行し得なかったことについては教えることがなかったのです。彼は、アメリカが生産した最も偉大で最も道徳的な男のうちの一人です。奴隷制度運動の廃止の時点で、彼は「市民の反抗の義務において」という有名なエッセイを書きました。彼は彼自身の主義と人間性の受難のために刑務所に行きました。彼の試みessayは受難によって聖別されたのです。さらにそれは永久に書きつづけられ、明確な論理には一言もありません。」
Gandhi, M. K. “For Passive Resisters” Indian Opinion 26 October 1907
【市民的不服従のためのルール】
1.不服従者は何があっても怒らないこと。
2.相手の怒りは我慢すること。
3.そのせいで暴行を受けることがあっても抵抗せず、仕返しもしないこと。どれほど殴られたり虐められたりしようが、怒りのもとでおこなわれた命令には決して従わないこと。
4.当局から逮捕されそうになったら、文句を言わず逮捕されること。たとえば当局が自分の財産を押収しようとしても抵抗せず、当局のするにまかせること。
5.他人の財産を預けられているときには、決してそれを当局に引き渡さないこと。そのせいで命を失うことになっても、絶対に反撃しないこと。
6.悪口を言ったり罵ったりしてもいけない。
7.したがって相手を侮辱してはいけない。隠語や新造語のたぐいでもいけない。
8.イギリス国旗には敬礼しない。けれども国旗や英・印の役人に対して侮辱することもしてはいけない。
9.闘争の最中に役人が侮辱されたり暴力を加えられることがあったら、命を賭けてその役人を守ること。
(wikipedia「市民的不服従」より抜粋)

◆ルーサー・キング・Jr(1929-1968)
「私は悪に対する非協力が善への協力であるのと同じくらい大きな道徳的責任であることを確信しています。この考えを得たなかで、ヘンリー・ディヴィッド・ソローほど雄弁で、熱心な人はいませんでした。彼の著作と個人的な証言によって、私たちは想像的な反抗の後継者となりました。ソローの教えは、私たちの公民権運動のなかで生きています。本当に、それらの教えは以前にもまして生き生きとしているのです。
簡易食堂、ミシシッピへのただ乗り、オールバニーでの平和的な抗議、ジョージア、モンゴメリーでのバスボイコット、アラバマで座り込みにおいて表されようと表されまいと、これらは悪が抵抗されなければならないという、そして、道徳的な人間は不正に適応することができないというソローの主張の結果です。
」King, M. L. “Morehouse College”
(Chapter 2 of “The Autobiography of Martin Luther King, Jr”)

◆マルティン・ブーバー(1878-1965)
「ソローは一般的な提案を出さず、彼のいたある歴史において伝記のように彼の態度を打ち立て、彼の意見を主張します。ソローは、同じような状況にいる読者に呼びかけます。読者は、なぜソローがあのような(奴隷売買や戦争に使われる税金の支払いを拒み、その結果投獄されるような)行動したかに気がついたときには、自身もまた――もちろん彼が正直で冷静であるとして――人としての存在を果たすことに深刻に従事しているならば、適当な出来事が起こったときはいつでも、ちょうどそのようなやり方で(反抗を)行わなければなりません。この問題は、実行するには力不足な真実と、真実に反する力との争いの、いくつもあるケースのうちの一つではありません。いつ何時でも人としての義務となるこの闘いの、まったく具体的な実例なのです。」
Buber, Martin “Man’s Duty As Man from Thoreau in Our Season” University of Massachusetts Press (1962) p. 19



●本文
【奴隷売買、メキシコ戦争に関する問題提起 p.8~p.17】
「統治することのもっとも少ない政府こそ最良の政府」
=「まったく統治しない政府が最良の政府」
→ところが、ひとつの方便にすぎないはずの政府は不便をきたしている。
       Ex)メキシコ戦争

アメリカ政府は本来の{独立宣言時のような}完全さを失いつつあるのではないか?
×無政府主義者「政府をなくそう」 ○市民「ましな政府をつくろう」

多数者が支配するような政府は、とうてい正義に基礎を置いているとは言えない。
私の考えでは、われわれはまず第一に人間でなくてはならず、しかるのちに統合される人間となるべきである。(…)私が当然ひき受けなくてはならない唯一の義務とは、いつ何時でも、自分が正しいと考える通りに実行することである。(p.11)
法律に対する尊敬-遵守 < 正義に対する尊敬-遵守
・法律への過度の尊敬は、機械的な兵士しか作らない。
       Ex) 民兵、看守、警官、自警団
・頭を使って国家に仕えている者も、いつのまにか悪魔にも仕えることになる。
       Ex) 立法者、政治家
・良心をもって国家に仕えている者は国家に抵抗せざるを得ない。
       Ex)英雄、愛国者、偉大な改革者
奴隷の政府といってもいいようなこんな政治組織を、私は一瞬たりともわが政府として認めることはできないのだ。(p.15)
自由の避難所となることを引き受けたある国家の人口の六分の一が奴隷であったり、国全体が外国の軍隊によって不当に蹂躙されたり征服されたりしたために{←メキシコ戦争を示唆}、軍政に従わねばならなくなったりした場合、誠実な人間はただちに反乱と革命を起こすべきだと考える。(p.16)
× ペイリー「市民政府への服従の義務」――個人の抵抗は危険であり、損害が大きい。
○ たとえどんな大きな犠牲を払ってでも正義を敢行しなければならない場合がある。

【マサチューセッツ州の市民への呼びかけ p.17~p.26】
マサチューセッツ州批判
マサチューセッツ州の改革に反対しているのは、南部にいる十万の政治家ではなくて、この州にいる十万の商人や農民である。彼らは人道よりも商業や農業の方に感心があり、その結果がどんなに高くつこうと、奴隷やメキシコに対して正しくふるまう気はないのである。私は遠方の敵に対してではなく、わがふるさとの近くにいながら遠くの敵と協力し、その命令に従っているひとびとに対して異議を申し立てているのだ。(p.18)
奴隷制度や戦争に反対の意見をもっているが、実際には行動しない人々。投票だけする人がいる。
→ 投票はわずかに道徳的色彩があるだけのゲームにすぎない。
正義のために投票したからといって、正義のためになにかしたことにはならないのである。(p.20)
不正の根絶のために身を捧げなさい、と言っているわけではない。
しかし、少なくとも不正に関与しないこと、また、今後不正を犯す気がないならば、実際に不正を支持しないようにすることは、明らかに人間としての義務である。(p.22)
いたるところにある過ちは、良心的な人たち(政府に反対しながらも、その政府を支持する人々)によって支えられ、存続している。
→ 人は反対意見を抱くだけで、行動を起こさずに満足することがありうるだろうか?
◆不正な法律が存在するとき。
× たいていの人間――多数者を説得して法律を改正させる。矯正手段は悪法よりも悪いかもしれない。
○ 矯正手段が悪法より悪いとしたら、それは改革を予想していない、政府の欠陥だ。

【ソロー自身の反抗のやり方 p.26~】
政府の権威を、意図的に、行動に訴えて否定するといった方法は、いままでになかった。
       Ex) 九シリングの人頭税の拒否 (※1ポンド= 20シリング)
州の弊害を政治的方法{州知事に歎願する、選挙に立候補するなど}で正してみれば?
→それは私の仕事ではない。
私がこの世に生まれてきたのは、そこを住みやすい場所にするためではなく、よかろうがわるかろうが、そこで暮らすためである。人間はあらゆることをしなければならないわけではなく、なにかひとつのことをすればよい。また、あらゆることをするわけにはいかないからといって、わるいことをしなくてはならないというわけではない。(p.27)
奴隷制度廃止論者は、マサチューセッツ州政府を支持したり、財政的に援助することを、いますぐ、全面的に停止するべきだ。
たった一人の誠実な人間が奴隷の所有をやめ、投獄されるとしたら、そのことがアメリカにおける奴隷制度の廃止になる。
改革に関する{政治的な}議論はされているが、{個々人の}奉仕はなされていない。
人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまた牢獄である。(…)そこは隔離されているけれども、とりわけ自由な、尊敬に値する場所であり、州に同調しないで反対する人々を州が入れておく場所であり、奴隷州において、自由な人間が名誉を失わずに住むことのできる唯一の家である。(…)仮に千人が今年の税金を支払わないとしても、それは税金を支払うことによって州に暴力をふるわせ、無実の血を流せることほどには、暴力的でちなまぐさい手段であるとはいえないだろう。事実、もし平和革命が可能だとすればこれこそ平和革命の定義である。(p.30-32)
まったく{政府が流通させている}金を使わない人間には、さすがの州も納税の要求をためらうだろう。
       Ex)キリストとヘロデ派の問答
ソローの隣人
→政府への服従拒否が、財産や家族に及ぼす影響を恐れている。
→誠実に暮らすことと、外面的な意味で快適に暮らすことの両立は不可能ということになる。

【『わが牢獄』について p.35~p.44】
理不尽な教会への納税を断り、戦争と奴隷売買に使われる人頭税の支払いを拒否した。
→ 投獄
州は人間の知性や道徳を相手にしているのではない。人間の肉体と感覚だけを相手にしている。
私を単なる血と肉と骨のように扱って監禁する州にあきれた。州が哀れでならない。
私よりも高い法則に従うひとたちだけが、私を強制することができるのだ。彼ら(州)はわたしに向かって、彼らに倣うようにと強制するのである。ひとかどの人間が、多数者によってその生き方をああしろこうしろと強制されるなんて話は聞いたこともない。(p.38)
牢獄で一夜をすごす。
出獄したとき、自分の暮らしている州の正体がはっきりと見えた。村人たちへの失望。
高い丘の上から見れば、州などどこにも見えなかった。

【ソローの現在の立場 p.44~p.54】
私が税の支払いを拒むのは、(奴隷売買を容認し、戦争に荷担する)州への忠誠を拒否するためだ。
→「静かな宣戦布告」だから、私に課された税金を支払ってはならない。
自身の頑固さや他人の意見に流されてはいけない。
自分自身とそのときの状況にふさわしい行動だけをとるように注意しなくてはならないのだ。(p.45)

自問自答①…私の行動は、従順な隣人たちを苦しめているのではないか?
→私は彼らと同じ行動をとる必要はない。ほかの人たちのもっとひどい苦痛を見過ごせない。
自問自答②…税金の支払いを拒んでも、ほかの数百万の人々に訴えかけられない。税金は寒さや飢え、野獣のような必然の力なのではないか。
→数百万の人々は、無生物ではなく人間だ。いまある人間の姿に、私は満足しない。
私はどんな人間や国家ともことを構えたくはない。国の法律にはよろこんで従う。だが、その口実が見当たらない。

<低い観点> いろいろ欠点はあるにしろ、合衆国憲法や政府は見事で、希有なものである。
<高い観点> 私が述べてきた通り、政府にはさまざまな問題がある。
政府のことは私にとってあまり重要ではない。存在しないもの(=支配者)を存在すると思い込んだりしなければ、決定的な妨害は受けない。
制度の内側に身をおいていては、制度をありのままに見ることはできない。
   Ex)ウェブスターの特質は叡智ではなく、分別。1787年に憲法を制定した人々の追従者。
ウェブスター「(憲法が奴隷制度を認めているなら)それが当初の契約の一部分だったのだから、そっとしておこうではないか」
聖書と憲法の上流には、真理のさらに純粋な源泉が存在する。{個人の良心??}
新約聖書が書かれて千八百年もたっているのに、それを利用できるだけの叡智と実際的な才能をもった立法者はまだ現れていない。
「個人に対する尊敬の度合]絶対君主制→立憲君主制(イギリス)→民主制(アメリカ)→???
国家が個人を、国家よりも高い、独立した力として認識し、国家の力と権威はすべて個人の力に由来すると考えて、個人をそれにふさわしく扱うようになるまでは、真に自由な文明国は決してあらわれないだろう。(p.54)

作者:warabannshi

更新日:2008年11月27日 11時46分

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『ニットキャップマン』

●『ニットキャップマン』(歌:ムーンライダーズ、作曲:岡田徹、作詞:糸井重里)
 矢野顕子と鈴木慶一のコーラス、「おー フジオさん(フジオさん)」は、肩の力が抜けていてありえないほど素晴らしい。

 このPVは岩井俊二が監督を務めている。
 『毛ぼうし』として単独作品としての鑑賞にも耐える。

作者:warabannshi

更新日:2008年11月23日 13時14分

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第213夜 「スーパーマリオワールド「観念論とコスモスの照合」」

 ゲーム「スーパーマリオワールド」を、若い俳優がやっているテレビ番組を見ている。
 ステージは「観念論とコスモスの照合コース」。
 裏面的な要素の強いスターワールドにある、8面か10面のお楽しみステージの一つ。難易度はめちゃくちゃに高くて、自分が小学生のときはこのステージから先へはついに進めなかったのだ。攻略本によれば、「マリオ・スタッフもびっくりコース」というのもあって、しかしそれがどういうステージなのか、攻略本のくせに何の情報も載っていなかった。
 もしかしたら、この番組で見られるかもしれない。

 「観念論とコスモスの照合コース」の最初は、ステージに配置された無数の音符ブロック(「♪」マークのやたらと弾性のあるブロック)をうまく使わなければならない。それらに弾かれながら、地面のない=弾かれそこなって落ちたら終わりのステージをどんどん右に進んでいく。
 若い俳優はそうとうマリオをやりこんでいるらしい。
 空中に浮かんでいる音符ブロックから「ぱよん ぱよん ぱ ぱよん」と軽快な音を立てて、マリオは移動していく。迫ってくるノコノコや、致死性の棘を、かわす。一定の間隔で行ったり来たりするリフトに、しがみつく。危ういところで。
 その曲芸にスタジオのギャラリーが「おおおお」とどよめいたり、司会者がどうでもいいコメントを発したりするのはほんとうにどうでもいい。
【後日、その番組を見ていた秋山瑞人のエッセイを、この瞬間に読む】
「ああいう(スタジオのような)空間で有象無象にちゃかされながら一人だけコントローラーを握ってゲームに興じているのはたぶんとても孤独なことで、ふつうなら適当なところで死んじゃって、照れ笑いを浮かべながら自分の席に戻るだろう。おそらくそっちの方が空気を読んでいるのだ。断然。テレビ局も、画を編集する手間がはぶける。けれど、そういう打算や諸事情を忘れてマリオをやっていた○○(俳優の名前)はできた男である。」

 途中から、マリオは洞窟内に入る。
 洞窟に入った瞬間に、マリオのテクスチャがささくれて、壊れて、黄金色の回転体になる。
 おお、マリオの中身!
 やはりスターワールドに行っただけある。真理に近づきつつある。
 黄金色の回転体は金属がこすれるような音を立てながら、せまってくる巨大な円盤ノコギリをかわして進む。円盤ノコギリはマリオ=黄金色の回転体を切り裂くのではなく、むしろそれをかき消すか、それか円盤のうちに取りこもうとしているのだ。マリオと円盤ノコギリは同じものでできている。そうか、だからマリオ=黄金色の回転体の回転音は金属……、しかしそれでは、この洞窟とトラップから、マリオは生まれたのだろうか? それとも、ある同じものがマリオと洞窟に分化したのだろうか? とか思いつつ、さらにゲームをつづける。
 ――この時点で、マリオをやっているのはスタジオの俳優ではなく、自分自身。

 ついに、洞窟もクリアして、巨大な球状の空間に出てくる。
 黄金色の回転体から、テクスチャはマリオのそれに戻っている。
 いよいよボス戦か。
 と進んでいくと、安っぽくピンク色に光り輝く「?」「!」が浮かんでいる。
 その隣には、「?」「!」をはめこんでください、といわんばかりの空漠がある。
 おそらくこの二つのポリゴンを適切な位置にはめこめばステージ・クリア(「コスモスの照合」の完成?)なのだろう。
 まったく納得がいかない。
 こんなとってつけたような完結は願い下げだ。
 コスモスは照合せず、マリオは制限時間いっぱいまでさまよい続けるのが訓というものだ。
 しかしこれはゲームだし、と思い、いそいそと「?」「!」を適切な位置にはめこむ。

 ステージ「観念論とコスモスの照合」はクリアできたが、夢からは醒めてしまった。

作者:warabannshi

更新日:2008年11月22日 8時28分

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(無題)

Remettre à la place la véritable fonction du plaisir.
(To put instead the real function of the pleasure in a proper place.)

作者:warabannshi

更新日:2008年11月21日 17時31分

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『フランドルへの道』クロード・シモン(1960/1978) 抜粋

 彼は手に一通の手紙を持っていたが、目をあげて僕を見つめ、それからまた手紙を見、それからまた僕を見た。彼のうしろに、水飼い場に連れて行かれる馬たちの代赭色がかかった赤褐色の反転が言ったり来たりするのが見え、あまりに泥が深くてくるぶしまでもぐりこんでしまうほどだったが、いまでも覚えているのは、たしかその夜の間に急に氷がはりつめ、ワックがコーヒーを部屋に運んできたとき、犬どもが泥をくらいました、といったことで、ぼくは一度もそんな言いまわしを聞いたことがなかったから、まるでその犬どもとやらが、神話のなかに出てくる残忍な怪物のように、縁が薄桃色になった口、おおかみのように冷たい白い歯をして、夜の闇のなかで真黒い泥をもぐもぐ噛む姿、おそらくなにかの思い出なのだろう、がつがつした犬どもが、すっかり平らげ、地面をきれいにしてしまう姿が目に映るような気がしたのだった。いまは泥は灰色をしていて、われわれはいつものように朝の点呼に遅れまいとして、馬の蹄の跡が意志みたいにこちこちに凍った深いくぼみに、あやうく足首をくじきそうに、足をよたよたさせて走っていたところだったが、すこしたって彼が母上から手紙をちょうだいしたよといった。やっぱり、やめてくれといっておいたのに母が、勝手に出紙を書いたのであって、ぼくは自分の顔があかくなるのがわかり、彼も微笑かなにかそういった表情を浮かべようとしてだまりこんだが、きっと彼には、愛想よくすることではないとしても(たしかにそうしたいとは望んでいたのだから)あのよそよそしさを抹消することはできなかったのにちがいない。その表情はわずかに、ごましおまじりのごわごわしたちょび髭を左右に引きつらせただけで、年じゅう戸外で生活している人間に特有の、あの渋色に日やけした顔の皮膚、くすんだ色の皮膚には、どこかアラブ人的なところがあり、きっとシャルル・マルテルが殺しそこねたアラブ人のだれかの名残なのだろう、だから彼はおそらく、タルン県の彼の隣人である小貴族たちとおなじように、《わが家の祖先聖母マリア》の後裔だと自称していただけでなく、さらにその上、きっとマホメットの子孫だとも自称していたにちがいなく、われわれはいずれにしろ親戚だからね、そう彼はいったが、思うに彼の頭のなかでは、すくなくともぼくに関しては、親戚というそのことばはむしろ、蚊とか虫とか蛾とかなにかそういった程度のものを意味していたようで、またしてもぼくは、彼の手のなかにその手紙を見つけ、それがでれの用箋がわかったさっきとおなじように、怒りで自分の顔が赤くなるのを感じた。
(p.7-8)


小説の自由
保坂 和志 / 2005 / 新潮社
ISBN : 4103982055
 5章「私の解体」は脱線が多いけれど良質なクロード・シモン論で、p.89-90に上の引用がやはりなされている。「いちいち内容を理解(ないし記憶)しようとして丁寧に読まずに、勢いに任せてダーッと読んでいく方がいいみたいで、そうすると文章もうんうん唸りながら進む泥でなく、歯切れよく活発で機敏に感じられてくる」という保坂和志の意見は一理ある。けれど、「うんうん唸りながら進む泥」が真冬に果てしなくつづくような『フランドルへの道』だからこそ生命力を予感させることもあるのだ。

作者:warabannshi

更新日:2008年11月20日 9時15分

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第212夜 「試験:AA(アスキーアート)」

 うち自身の双子と横にならんでAA(アスキーアート)の試験を受けている。
 試験の内容は、所定の紙に手書きでお題に沿ったAAを書くこと。
 設問1.「大漁大漁」
 これには、「泥船に乗って『大漁大漁』と言っているモナー(あるいはニダー)』を書く。
 設問2.「大漁大人」
 これには、「釣った魚と一緒に無人島に漂着した複数のモナー(あるいはニダー)」を書く。
 AAなんて書いたことはないが、手書きでもわりとすらすら書ける。
「ちがう、設問2はヒッカケだ」と双子のうち。
「この四字熟語の読み方は“たいりょうたいじん”ではなくて、“たいりょうおとな”。たくさんの魚とたくさんの人、ではなくて、たくさんの魚を釣っているオトナと解するのが正しい」
 そうか。
 “たいりょうたいじん”ではなくて、“たいりょうおとな”。
 だが、そんなAAは思いつかない。
 双子のうちと視点を交換すると、もう一人のうちの受けている試験はAAではなく、回答欄には日本語で「裂いた腹に塩を詰めて縫い合わせる」と書いてある。
【フラッシュバック】
 白黒のニュース映像。
 昭和三十年ごろ、水俣の漁村で若い警察官の死骸が発見される。
 三〇センチほどの長さに裂かれた腹部から、『アンダルシアの犬』のように大量のクロアリが湧きだしている。

 腹に詰める塩はこのクロアリを止めるためのもので、彼の回答は正しいのだ、と思う。

作者:warabannshi

更新日:2008年11月17日 7時22分

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(無題)

Dialogue dans le noir! Pour perdre la balance.

作者:warabannshi

更新日:2008年11月14日 18時18分

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生物多様性保全学レジュメ 2008/11/12発表分 「70年代における国外/国内環境政策の構造とその背景」


 2008年5月28日、生物多様性基本法が成立した。国内で初めてとなる生物多様性の保全を目的としたこの基本法には、政策の検討段階での市民参加や、より強力な環境アセスメントの導入(*1)、国内の自然保護にかかわる各法律の改正などの要点が盛り込まれている。2003年ごろからこの法案の原案を提起しつづけてきたWWF(世界自然保護基金;World Wide Fund for Nature)などの自然保護団体は法案の内容を高く評価している。
 ところで、「生物多様性保全」「生態系保護」「特定外来種の駆除」などの一連の語句はいったいどの時期から社会通念的に(つまり「国際貢献」や「景気高揚」のような政治的用語として)肯定的なイメージを付与されたのだろうか?
 以下のレジュメでは、「生物多様性保全」に肯定的なイメージが付記された時代背景について概観したい。

●生物多様性保全関連の国際条約の変遷(日付は採択/発効の順)
1971年2月/1975年12月「ラムサール条約」
1972年11月/1975年12月「世界遺産条約」
1973年3月/1975年7月「ワシントン条約」
1979年/1983年11月「ボン条約」
1992年5月/ 1993年12月「生物多様性条約」
――→ 1970年代前半に、主要な生物多様性保全関連の国際条約が集中的に採択・発効されていることがわかる。

Q.国際的な観点から、70年代前半は科学技術史、政治史のなかでどのような位置づけにあるのか?
――→
・科学批判の時代と〈エコロジーのイデオロギー〉1968-1970年代
 ヴェトナム戦争が深まる一九六八年ごろから、{とりわけ米国内では}学生の反対で大学での{対共産圏の}軍事研究ができなくなり、軍部もそれなら大学にまかせず、自分のところで軍事開発研究をやろうということになった。{五七年、ソ連の人工衛星スプートニク打ちあげ成功以来、米国は大学での基礎研究・応用研究に巨額の予算を投じてきた経緯がある} (p.9)
 ただもう少し長いスパンを考えて一つ言えることは、今日まで続いているSTS{科学技術論;Science, Technology and Society)やリサイクル、自然エネルギーなどの運動の発生起源が、一九六八年に始まる最初の五年間くらいにみな収まっていることである。{六八年は西側資本主義諸国の各都市で学生を主体とした暴動が同時多発的に起こった年として有名。Ex.東大紛争(日)、五月革命(仏)}(……)それは〈基礎科学のイデオロギー〉ないし〈科学技術のイデオロギー〉とは対照をなすものである。しかしそれも昔からある、単なる反科学ではなく、エコロジーという科学的な面をもった革命である。そこで私はこれを〈エコロジーのイデオロギー〉と呼ぶことにした。 (p.117)
『科学技術の国際競争力』(2006) 中山茂 { }内引用者付記
――→ 「自然再生」「生物多様性保全」「外来種駆除」などの理念が、社会的に肯定的なイメージを持って語られ始めたのは、〈エコロジーのイデオロギー〉が認められるようになった1968-1970年代と重なる。(*2)

Q.日本において1968-1970年代当時の自然保護行政はどのような構造を持っていたのか?
―→ 「自然環境保全法」(1972年6月制定)
 もとは日本国民の健康で文化的な生活を確保するために、1972年制定された。いくつかの自然環境にたいする「保全地域」が指定できる。さらに保全の対象ごとに「野生動植物保護地区」などの「特別地区」を設けることができる。
 1960年代になると、経済の高度成長に伴った国土の開発が、広域化・大規模化してきた。これまで自然保護のための開発規制等は個別の法律で対応してきたのであるが、このような背景の中では自然保護のための施策は十分でなくなってきた。そこで、自然保護のための基本理念を明確にし、自然保護の政策を強化するため、1972年に自然環境保全法が制定された。
 その後、1993年には、複雑化・地球規模化する環境問題に対応できるように、環境基本法が制定された。環境基本法の制定に伴い、自然環境保全法の理念に関する条文の一部が環境基本法に移行され、現在に至っている。
wikipedia「自然環境保全法」
―→ 日本の自然保護政策の決定やその実行過程に関する権限は、環境省に一元化されているわけではなく、多くの省庁と分有されている。そのため、環境省と自然保護行政にかかわる他の省庁(とりわけ農林省、林野庁)との関係は「自然環境保全法」に大きく影響を及ぼしている。

Q.日本の自然保護行政の政策決定・実行過程の構造的特徴は、70年代から現在までのあいだにどのように変遷しているのだろうか?

  (以下、次回発表)

(*1)
 従来のアセスメントは大規模開発事業等による環境への影響を事前に調査するものであったが、それよりも強力かつ対象範囲の広い、事業の計画段階からの環境アセスメントが導入されている。
(*2)
1957~68年の〈科学技術のイデオロギー〉と、68年~70年代の〈エコロジーのイデオロギー〉は対照をなすと中山は考察する。(中山2006 p.119) 両者のイデオロギーの違いを項目別にわけてざっくりと図式的に並べると、以下のようになる。
・科学技術――絶対に推進。巨大化への傾向/既存の路線に対して批判的
・自然環境――自然開発、積極的な改造/かけがえのない自然の保護、保全
・科学技術論――科学技術が社会を先導/科学と社会の調和
・上下関係――ヒエラルキー、トップダウン/ネットワーク、ボトムアップ
・組合の要求――賃上げと労働時間の短縮/労働の質の向上、労働疎外を避けること
・エネルギー――原子力、化石燃料/循環可能な自然エネルギーの活用
・世界――高度産業社会/第三世界

作者:warabannshi

更新日:2008年11月12日 22時40分

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探索記録29「暗唱したり、丸暗記することに関しての覚書 その二」

 小説家・保坂和志(1956- )は、彼が敬愛するチェコの小説家、フランツ・カフカ(1883-1924)についてこんなことを話している。
 ぼくがいちばん好きな小説はカフカの『城』なんだけど、あの小説ってどういう順番でものごとが並んでいたか思いだせないんです。でもすくなくともカフカ本人は覚えていたはずだから、ぼくも何度も読めば『城』を覚えられるかもしれないと思って、五年前に三回つづけて読みなおしてみたんです。それでもまだ「すこしは覚えたかな?」という程度で、あの覚えられなさだけでもすごい小説だと思いますね(笑)。
 小説家が小説を書いている時の注意力や集中力や持続力はやっぱりたいしたもので、その小説に対して同じだけの理解をするにはもうほとんど丸暗記するような読みかたしかないんじゃないでしょうか。こういうことをいうと人にイヤがられるかもしれないんだけど、丸暗記のようなやりかた以外には小説家の考えの全体には近づけないと思います。
『ほぼ日刊イトイ新聞』「保坂和志さんの経験論」(2005-06-20)
 では、じっさいに丸暗記することによって、どれだけ、どのような具合に「小説家の考えの全体」に〈近づく〉ことができるのだろうか?
 カフカを例にして考えてみると、彼にしては例外的に長い未完の作品『城』のみならず、原稿用紙数枚の短編『田舎医者』(*1)などでもそれらを丸暗記することは非常に困難だ。じっさい、一週間ほどかけて朗読や筆写などしつつ『田舎医者』の丸暗記に取り組んでみたのだが、うまくいかなかった。小学生の合唱隊がわけのわからない歌や、「先生、僕を殺して」、「謀られた、謀られたのだ」という印象的なフレーズは覚えられるが、他があまりにも不吉すぎてこちらの覚える気力を著しく削ぐ。とはいえ、作品に通底する不吉な予感は決して否定的な意味合いだけではないし、不吉なことは生理的に覚えにくいかといえばまったくそんなことはない。今月2日に「死者の日」のミサで聴いた「Dies Ire」は黙示録的な歌詞なのに、というか黙示録的な歌詞だからこそついつい覚えてしまい、男女混唱のコーラスにまざって数節を口ずさんだ。
 だとすると、なぜか? なぜ小説では丸暗記することが困難なのか?
 前回、詩と小説のジャンル的な差違を考えるのに関連して「なぜ詩はいつのまにか暗記、暗唱されてしまうのか? なぜ小説は努力しても丸暗記することができないのか?」という問いを立てた。そして詩が暗唱されることを読み手に誘いかけるという事態に関しては、夢・白昼夢の作品化への欲求と重ね合わせて、「“この”詩の与える“この”強烈なインパクトの無限回の再現」欲求をそのモチベーションにしているのではないかとひとまず仮定した。
 ここで、丸暗記されることを読み手に誘いかけない小説について――ひとまずは、カフカの小説に沿って考えよう。
 保坂和志が彼のエッセイのなかで述べているように、カフカの背後には安定した意味体系が想定されていないし、鳥瞰図的な背景描写も、まるで注意深く取り除いたかのように書かれていない。また、「新潮」で掲載されていたシリーズ「小説をめぐって」や、小島信夫との往復書簡『小説修行』で書かれたものを参考にしているのだが、そのなかにたしか、「カフカは『変身』が出版されるときに、主人公、グレゴール・ザムザが変身した「虫」を挿絵に描いて載せないでくれと、わざわざ出版社に注文を付けた」という逸話が紹介されている。(*2)
 カフカの諸作品に共通するそれらの特徴がどのように読み手の丸暗記を阻害しうるのか?
 この疑問への直接的な答えにはならないが、【丸暗記】と【カフカ】を結びつけた箇所が(やはりというかなんというか)保坂和志のエッセイのなかにあった。
 『城』は場面と場面が因果関係によって繋がっていない。場面のひとつひとつが細かく書き込まれていて、その中に他の場面との呼応関係が見つけられるという書き方になっている。つまり、全体を流れる太い筋はない。もともと筋がないのだから筋を憶えられるはずがない、という言い方は、しかし、何かの省略か隠蔽か歪曲になる。
 『城』であっても、〝城〟に特定の意味を見つけ出した人にとっては、筋が浮かび上がってくるだろう。この「見つけ出した」とは「こじつけた」ということだ。〝城〟が官僚機構であるとか、神の恩寵であるとか、あるいは『城』の全体が定住する土地を持たないユダヤ民族の隠喩であるとか、あれやこれやに解釈する場合、きっと何らかの筋が浮かび上がるのだろうが、そのとき排除されるものが多すぎる。その筋だけを聞いても『城』には聞こえないだろうし、『城』をおもしろいと思って読んだそのおもしろさとは何も響き合わないだろう。
 それゆえ、筋が憶えられないのだから、全体を丸々記憶するしかない。そして丸々記憶することができれば、見落としていた呼応関係にも気づくことができるのではないか。
 キリスト教徒にとっての聖書や仏教徒にとっての経典はそういうものではないかと思うのだ。本を一冊丸々記憶することは不可能なことではまったくない。小説家は一つの作品を書いているあいだ、自分がどこで何をどう書いたかほぼきちんと記憶している。書き上がった直後に原稿が消えてなくなってしまったら、それは誰だって呆然とするけれど、それは二度と書けないからではない。書こうと思えば書けるけれど、(1)細部まできちんと完全に同じには書けない、ということと、(2)同じものを書こうとしてもわずかにずれた細部によって、かなり別の方向に引っぱられていってしまう、と思っているからだ。書くという行為にはジャズのアドリブに似た一回性のパフォーマンスの要素がどうしてもつきまとい、それを完全に切り捨てることはできない。
カフカ『城』ノート(1)(前編)「新潮」2007年11月号
  (つづく)

(*1)1917年製作。あらすじは以下の通り。
 田舎医者は吹雪の中10マイル離れた村の重病人のところに行かねばならないのに、馬車を引く馬が過労で死んでしまい困っていた。しかし豚小屋から突然2頭の馬が現れ、馬は馬車に繋がれる。その間、馬丁が女中のローザに気があるそぶりを見せ彼女を抱きしめ、ローザは嫌がって逃げ回っていた。医者は馬丁をローザのもとに残して行くわけにはいかないと主張するが、馬車はあっという間に疾走し、瞬時のうちに重病患者の家の前に着いてしまう。患者の若者を診てみると、彼は健康そのものである。しかし馬がいなないた時、若者の腰のあたりに大きな傷口があるのに気が付いた。そのあと医者は裸にされて患者の横に寝かされる。若者の家族は心配して成り行きを見守り、小学生の合唱隊がわけのわからない歌を歌い、患者の若者は医者の無能を非難する。そして医者は慌ただしく馬に飛び乗って逃げ出すが、馬車は今度はのろのろとしていっこうに進まず、背後には子供たちの「間違った」歌が響いている。こうして医者は馬丁の悪行を思い浮かべつつ欺かれたと感じ、冬の夜を彷徨う。
「カフカ辞典」
(*2) 2007年の11月号から現在まで「カフカ『城』ノート」を新潮に掲載している。自分はちょうどそのころから急に忙しくなったから最初の回より他にはそれらを読んでいない。

作者:warabannshi

更新日:2008年11月11日 2時5分

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第211夜 「餅蛇口」

 彼女Fが、名前の知らない駅(目黒駅?)の北口のビルで蒔絵を捜しているそうなので、手伝いに行く。
 農工祭が近いので、名前の知らない駅の駅前には餅の吹き出る蛇口がいたるところに取りつけられている。餅の吹き出る蛇口は、ファミレスのドリンク・バーのスムージーの蛇口の原理に近い。圧力の変化で、地下から熱い餅が出てくる仕組みになっている。
「むしろスーパープルームとおなじ原理だよ。」と連れ歩いている同僚が言う。
「餅は不定形なのに(…不明…)」とうち。
 
 名前の知らない駅前は道路工事と架線工事を両方やっているせいで、ふつうの水が出る蛇口もいたるところにある。
 

作者:warabannshi

更新日:2008年11月8日 10時28分

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(無題)

La méconnaissance ne change rien.
Nous pouvons l'ignorer.

作者:warabannshi

更新日:2008年11月7日 15時52分

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mixi 08.11.2記事「カトリックにおける「死者の日」に検証する、生者と死者についてどこかで話したこと。」

●仮説:私たちは生きている死者(living dead)である。あるいはすでに死んでいる。

【前提1】
 ある死者は、観測者(生死を問われない)にとらえられる限りで「現れた死者」である。もしある死者が隠れていて、「ある死者が隠れている」という事態さえも観測者に知られていないなら、そもそもその死者はとらえられないはずだから。
【前提2】
 ある対象Aが「現れた」ということは、
①世界の内側(-こちら側-現世)に対象Aがある。
②隠されていない仕方で観測者に了解されている。
 以上の①、②を同時に意味する。
【前提3】
 ある生者は、①世界の内側(-こちら側-現世)にあり、②隠されていない仕方で観測者に了解されている。

【演繹】
 【前提1,2,3】から、ある生者は少なからず「死者としての自己」を示すこととなることがわかる。なぜなら、ある生者と「現れた死者」を明確に区別することはできないから。

 よって上記の仮説は真である。
 Q.E.D.

●追加論考
【演繹への疑問】
 生者Aが示している「死者としての自己」。その死者は、死者Aだろうか? つまり、ある生者とある死者のあいだに整合性・一貫性は保たれる必要はあるだろうか?
【演繹への疑問への回答】
 その必要はない。
 というのも、【前提1,2,3】は同一の対象についてでなければ成り立たない前提ではないから。

*******************
○仮説:すでに死んでいる私たちは、死なない。

[前提]
 生者-現れた死者のあり方を了解するとき、それは生者-現れた死者が死ぬことが出来る=死亡可能を意味する。というのも、もし死ぬことが出来ない=死亡不可能であるなら、それは一度も死者になり得ないから。
[演繹]
 生者-現れた死者は死なないことがない。※

 よって上記の仮説は偽である。
 Q.E.D.

[演繹から想起される経験則]
 生者-現れた死者はふつう不安のうちにある。
 不安は、生者-現れた死者の基調となる情緒である。生者-現れた死者はその気分として、「死者」を重荷に感じたり鬱々としたものと感じたりもしながら、けれどそれに対する恒常的な関心は失わずに(忘れたふりをする、あるいは他の関心事に中毒化する)、一定の生者-現れた死者としてありつづける。
[演繹から想起される経験則、そこへの提言]
 重要なのは生者-現れた死者が不安のうちにあることではなく、生者-現れた死者におけいては「死者」が関心事としてとらえられているそのことである。
 ※生者-現れた死者が死ぬことはこの段階では不確定であるが、死ぬ事態に対して没交渉であるかぎりにおいて「確実におこる可能性」とおくことができる。
*******************
◇問い:「死者」の意味とは?

 ○仮説の論考より、
 「死者」の意味を求める作業とは、「死者」そのものが生者-現れた死者の了解のなかにあるかぎりにおいて行われる作業である。
 ただし、
 ●仮説の論考より、
 「死者」と生者-現れた死者が同一性を持つ必要はない。同時に、相違性を持つ必要もない。

 よって、「死者」の意味は常に「われわれの死者」の意味として了解される。
 「われわれの死者」の意味=傾向とは、「終わりとしての=終わりへの死者」であり、「死としての=死への死者」である。というのも、「終わり」は生者-現れた死者にとって確実におこる可能性であり、「死」もまた同様であるから。(●仮説の※参照)

作者:warabannshi

更新日:2008年11月6日 14時10分

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『フランドルへの道』クロード・シモン(1960/1978) 抜粋

(……)そこでジョルジュ、「ヴィルジニーだよ」、そこでブルム、「何が?」、そこでジョルジュ「ヴィルジニーという名前だったんだ」、そこでブルム、「色気ちがいにしてはしゃれた名前だな。そこでその処女みたいなヴィルジニーが息をはずませてはだかでいて――というかはだか以上で、つまり彼女の着ている――というかむしろ脱いでいる――ネグリジェはだな、きっとあのとりこになった手を生暖かい液体みたいな腹にそって下へすべりこませ、めくれあがり、乳房までたくしあげられ、さらさらとした泡みたいな襞となって腰の上のほうにたまり――例のあの貴重で、繊細で、途方もなく高価な品物が泡立つような繻子のに陳列されている高級品店のショーウィンドーみたいで――あのかくされた、ひそかな口をむき出しにして、人目にさらすためだけに作られたみたいなネグリジェなんだ、つまりただ女が横になっているというのではなくて、ひっくりがえされ、ことばの正確な、力学的な意味でもんどりうってつまりまるで彼女のからだが、自然の要求をみたすためにしゃがみこむあの先祖伝来の姿勢からのまま半回転して――だって女はあらゆる欲求をみたすのにたった一つの姿勢、脚を折りまげ、腿を脇腹に押しつけ、膝がこんもりと影をたたえた腋の下にふれるといったあの姿勢しかできないんだからな――だがこのときはまるで地面がぐらりと揺れ、彼女をその姿勢のまま、あおむけにひっくりかえしたみたいで、いまは地面にむかってではなく空に向かって神話的なあの受胎、なにかかちかち鳴る黄金の雨みたいなものでも待つみたいに、彼女のふたつの尻、あの真珠貝、あの茂み、押しひらかれる前からすでにぬれて光っているあの永遠の傷口をさしだ出していたので、あまりにもはしたなく露呈されているためまるでそれが待つ行為は、突きさし、押しいり、きしみながらせまい肉のなかにのめりこむといえば連想されるような、外科的な適確さと露骨さをおびた行為みたいででなくともそれが(ありのままの、飾りをとりのぞいた、情念と関係する面をとりさったその行為自体が)あきらかに生理学の領域に属するという意味ですくなくともほとんど医学的な行為で、だからこそあのどこにでもあるいろんな構図のあぶな絵のなかで灌腸が、例の一物の挿入というテーマの無数のヴァリエーションの口実となっているので、それはただかたいばかりではなく強烈な勢いで、まるでそれ自体の液体化した延長みたいにあのがむしゃらな乳液、あのしぶきを外に噴出し、発射することもでき……」
 そこでジョルジュ、「いいかげんにしろ!」
 そこでブルム、「そういうお前は夢見がちにうっとりして、壁の上に名誉あるとはいわないがすくなくともまあ殊勝な、ロマンチックなピストルの銃弾の跡ばかり捜していて、こんな場面が目に浮かんだことはないのか、つまりベッドのそばに置いたろうそくの光が投げる、筋骨たくましい背中のせむしみたいな、複雑な、ばねのようにはずむ影だな、その影の腰のところに乳色の脚、あんず色の踵をした足が――マストにしがみつく難船者の脚みたいに――からみついていて、それが(影が)不気味に、山のようにふくれあがり天井までとどき、その下にいるけものみたいなものをゆさぶるあのたけり狂った大波であらしのようにゆさぶられていて、そのふたつの頭、四本の腕、四本の脚をもったけものみたいなもののふたつの胴体を腹のところで接合しているあの共通の器官(というかお望みならどちらにとっても自分のものでない器官といってもいいな、なぜって男のその部分は男のからだの内部にも女のからだにもおなじように食いこみ、おなじ長さの対称的な突起で両方の内蔵の奥深くまで延びているというふうに見えはしないか?)、その筋肉、その突き錐、あの赤黒い、ぎらぎら光る、荒れ狂った乳棒がふたつのぼうぼうと茂った褐色のしげみの間に見えかくれしていたんで、そこへ彼が(ド・レシャックが、というか平民になったんだから《ド》なしのただのレシャックだな)突然姿を現し……」
 そこでジョルジュ、「ばかいえ!」
(p.177~179)
フランドルへの道
クロード・シモン / 1960・1978 / 白水社

作者:warabannshi

更新日:2008年11月5日 10時8分

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第214夜 「学会報告:“慢性”(=“動物性”)という語の使用」

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PR: 聞いてみよう! 答えてみよう!

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◆環境思想・教育研究会 第11回例会

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農工大自主ゼミ 『市民の反抗 他五編』「市民の反抗」まとめ 2008/6/12発表

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『ニットキャップマン』

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第213夜 「スーパーマリオワールド「観念論とコスモスの照合」」

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(無題)

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『フランドルへの道』クロード・シモン(1960/1978) 抜粋

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第212夜 「試験:AA(アスキーアート)」

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(無題)

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生物多様性保全学レジュメ 2008/11/12発表分 「70年代における国外/国内環境政策の構造とその背景」

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探索記録29「暗唱したり、丸暗記することに関しての覚書 その二」

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第211夜 「餅蛇口」

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(無題)

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mixi 08.11.2記事「カトリックにおける「死者の日」に検証する、生者と死者についてどこかで話したこと。」

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『フランドルへの道』クロード・シモン(1960/1978) 抜粋

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